11月, 2013年

日本・オマーン学生交流会が開催されました

2013-11-24
11月17日・18日の2日に亘り日本・オマーン学生交流会が東京中野の成願寺で開催されました。9名の会員がオブザーバーとして出席するなか、首都圏のみならず筑波、仙台、関西からも集まった9名のオマーン人留学生と20名余りの日本人学生が集い、日本語の使い方や留学生の日本での体験談などが紹介されました。ムスラヒ大使ご夫妻やアルマスカリ一等書記官も出席され学生らと歓談されました。またクラブ会員による地唄舞や大学生による津軽三味線が披露され、日本の伝統芸能も楽しんでもらいました。
students
交流会に出席した両国の学生は新宿で夕食を共にし更に親睦を深めました。その夜は両国の学生が成願寺方丈のご厚意により庫裡に宿泊させていただき、翌18日早朝には座禅も体験しました。朝食後浅草へ向かい、仲見世見物や人力車を楽しんだ後秋葉原へ、と留学生には一日東京を満喫してもらえたようです。
座禅
17日にはオマーン国営TVが取材に入り、11月20日には交流会の様子がオマーン全土に放映されました。ユーチューブに掲載されていますのでぜひご覧ください。
 
本年度の交流会はオマーンクラブとして来年度からオマーン人留学生のためのオリエンテーションを行うことを視野にいれた試験的なものでした。様々な面で考慮すべき点が見え有意義なものとなりました。

知られざる古川宣誉

2013-11-21

                                             下條綱木

はじめに~日本・オマーン交流史上の足跡

 古川宣誉(のぶよし)が、近代以降、初めてオマーンの地を踏んだ日本人であることは、当会会員の多くの方もご存知であろう。当時陸軍工兵大尉であった古川がオマーンを訪れたのは、明治13(1880)年6月25日のことである。ペルシャ・トルコへの使節団の団長である外務省の吉田正春は、このときすでにペルシャへ向かって先行しており、古川は単身でのマスカット訪問となった。わずか数時間という短期の滞在であり、オマーン国王に謁見する機会もなかったが、古川が、日本・オマーン交流史上に長く記憶にとどめられるべき存在であることにかわりはない。 しかし、古川の実像は、その著書『波斯(ペルシャ)紀行』ほどには知られていない。微禄の幕臣から身をおこし、工兵の出身としては最高位の陸軍中将にまで昇り詰め、男爵にまで列せられながら、まとまった伝記もなく、ほとんどの人名辞典には、記載すらないのである。そこで、本稿では、現在手に入る資料から古川にかかわる二人の人物を選び、彼らとの関係から古川についてあまり知られていない事実を紹介してみたい。

江原素六との関係

 江原素六は、麻布学園の創立者・初代校長であり、静岡県沼津市の私立駿東高等女学校 (現
静岡県立沼津西高等学校)の創立や運営にも深くかかわった教育家である。江原が麻布学園のみならず、沼津市の教育界の発展に力を尽くしたのは、戊辰戦争後徳川宗家が沼津に移封されたのを機に沼津に移住し、旧幕臣を生徒の中心とした沼津兵学校(後、陸軍士官学校の前身の陸軍兵学寮に統合される)の教師になったことに端を発する。現在、沼津市明治史料館は、江原素六記念館とも銘打たれ、今もそのときの江原の功績を讃えている。前置きが長くなったが、古川宣誉は、その江原素六の命の恩人なのである。これは形容ではなく、文字通りの意味でである。

 話は、戊辰戦争のときに遡る。慶応4(1868)年、当時26歳の江原は、幕府の撤兵隊の大隊長として船橋・市川の戦いに臨むが、官軍の兵士に組み敷かれてしまう。絶体絶命、もはやこれまでというところで、その危急を救ったのが、江原の部下で当時19歳の古川であった。古川の助けがなければ、今日の麻布学園は存在しないところであった。江原は、このことを終生徳として、機会あるごとに周囲の人に語ったという。その江原の感謝の気持ちは今も変わらずに2003年に出版された麻布文庫の加藤史朗著 『江原素六の生涯』の中にも伝えられている。

※江原と古川の年齢は、いずれも満年齢。なお、余談であるが、二人の誕生日は年こそ違うが、同じ3月10日である。これも何かの因縁であろうか。

古川ロッパとの関係

 古川ロッパは、戦前から戦後にかけて約20年間第一線で活躍し、一世を風靡した喜劇俳優である。70代より若い世代の方にはなじみが薄いかもしれないが、浅草出身の喜劇人の系譜として、萩本欽一、ビートたけしの先祖筋にあたると言えば、多少はその人気のほどを感じていただけるだろうか。また、日本の演劇史、喜劇史に詳しい方でも、ロッパが、帝国大学(現東京大学)第二代総長の加藤弘之男爵の孫で古川家に養子に入ったことまでは、ご存知かもしれない。しかし、ロッパと古川宣誉を直接結び付けられる人はほとんどいないだろう。筆者も『沼津兵学校と其人材』を読むまでは、二人が血縁関係にあるとは全く想像すらできなかった。ここで、加藤・古川両家の関係を整理してみる。古川宣誉の長男武太郎の妻として加藤弘之の六女徳子が嫁いだが、夫妻に子供がなかったため、二人のもとへ加藤の長男照麿の六男であるロッパが養子となった。つまり、ロッパは古川宣誉の孫にあたることになる。

おわりに~古川家代々之墓

 古川宣誉に敬意を表すべく、墓参りをしてきた。古川家から資料を借りて古川の項をまとめたという『沼津兵学校と其人材』には、渋谷区神宮前にある「龍巌(岩)寺」に葬られたとあるが、ロッパの墓は雑司ケ谷霊園にあり、その真偽を確かめるのも目的の一つであった。結論から言うと、古川は、雑司ケ谷霊園の古川家代々之墓にロッパとともに眠っている。では、龍巌寺はどうなのかというと、「檀信徒以外の出入りをお断り申す。合掌」 という札が山門にかかっていたため、今回は住職に確かめるのを遠慮して帰ってきた。もともとの古川家の墓が龍巌寺にあり、宣誉も一旦はそこに葬られたが、男爵に叙せられた父のために宣誉の息子の武太郎がここに墓を移したか、単に手狭になったために移動したか、あるいは、分骨したかのいずれかではないだろうか。

 雑司ケ谷霊園は、都営の霊園であり、誰でも気軽にお参りできるので、時間のある方は一度訪ねてみることをおすすめしたい。時折ターカにある墓前で亡き母と時の過ぎるのも忘れて対話するというカブース国王に倣い、樹木の生い茂る霊園で故人とひとときをともにすることによって、心身ともにリフレッシュできるのではないだろうか。霊園のホームページにある案内図には古川ロッパの墓の位置が示されているので、それを参考にすれば簡単にたどりつける。私事であるが、筆者は、次回は乳香を取り寄せて古川の墓前に供えたいと考えている。

今日からイスラム暦の新年

2013-11-05

 

本日(11月5日)からヒジュラ暦(=イスラム暦)の新年「ヒジュラ暦1435年」がはじまります。したがって、本日は日本の1月1日にあたり、オマーンは休日です。

この機会にオマーンの祝日のことをお知らせします。

ヒジュラ暦とは、預言者ムハンマドがマッカからマデーナへ聖遷(ヒジュラ)した西暦622年を元年とする暦で、イスラム社会で使われています。

ヒジュラ暦は月の満ち欠けの周期約29.5日を1ケ月とする太陰暦で、1か月が29日の小の月と30日の大の月をおおむね交互に繰り返します。したがって、1年はおおむね354暦日となるので、1年ごとに11日ほど太陽暦より短くなります。

来年、つまり「ヒジュラ暦1436年」の新年は、11日早まった西暦2014年10月25日前後からとなります。

ヒジュラ暦も12の月からなり、最初から順に、ムハッラム(1月)、サファル(2月)、ラビーウ・アルアウワル(3月)、ラビーウ・アッサーニー(4月)、ジュマーダ・アルウーラー(5月)、ジュマーダ・アルアーヒラ(6月)、ラジャブ(7月)、シャアバーン(8月)、ラマダーン(9月、断食月)、シャウワール(10月)、ズー・アルカアダ(11月)、ズー・アルヒッジャ(12月、巡礼月)と呼びます。

オマーンでは、ヒジュラ暦と西暦を併用しており、ヒジュラ暦の新年(ムハッラム月1日、預言者ムハンマドの生誕祭(ラビーウル・アウワル月12日)、預言者昇天祭(ラジャブ月27日)、ラマダーン明けの祭り(シャウワール月1~3日)、犠牲祭(ズール・ヒッジャ月10日から13日)、それに西暦の1月1日、7月23日(カブース国王即位の日)、11月18日(同国王の誕生日)が祝日となっています。

今月のアラビア語「ありがとう」

2013-11-01

 

シュクラン

( شكرا :shukran )

 

発音はこちらで聞くことができます。
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