知られざる古川宣誉

2013-11-21

                                             下條綱木

はじめに~日本・オマーン交流史上の足跡

 古川宣誉(のぶよし)が、近代以降、初めてオマーンの地を踏んだ日本人であることは、当会会員の多くの方もご存知であろう。当時陸軍工兵大尉であった古川がオマーンを訪れたのは、明治13(1880)年6月25日のことである。ペルシャ・トルコへの使節団の団長である外務省の吉田正春は、このときすでにペルシャへ向かって先行しており、古川は単身でのマスカット訪問となった。わずか数時間という短期の滞在であり、オマーン国王に謁見する機会もなかったが、古川が、日本・オマーン交流史上に長く記憶にとどめられるべき存在であることにかわりはない。 しかし、古川の実像は、その著書『波斯(ペルシャ)紀行』ほどには知られていない。微禄の幕臣から身をおこし、工兵の出身としては最高位の陸軍中将にまで昇り詰め、男爵にまで列せられながら、まとまった伝記もなく、ほとんどの人名辞典には、記載すらないのである。そこで、本稿では、現在手に入る資料から古川にかかわる二人の人物を選び、彼らとの関係から古川についてあまり知られていない事実を紹介してみたい。

江原素六との関係

 江原素六は、麻布学園の創立者・初代校長であり、静岡県沼津市の私立駿東高等女学校 (現
静岡県立沼津西高等学校)の創立や運営にも深くかかわった教育家である。江原が麻布学園のみならず、沼津市の教育界の発展に力を尽くしたのは、戊辰戦争後徳川宗家が沼津に移封されたのを機に沼津に移住し、旧幕臣を生徒の中心とした沼津兵学校(後、陸軍士官学校の前身の陸軍兵学寮に統合される)の教師になったことに端を発する。現在、沼津市明治史料館は、江原素六記念館とも銘打たれ、今もそのときの江原の功績を讃えている。前置きが長くなったが、古川宣誉は、その江原素六の命の恩人なのである。これは形容ではなく、文字通りの意味でである。

 話は、戊辰戦争のときに遡る。慶応4(1868)年、当時26歳の江原は、幕府の撤兵隊の大隊長として船橋・市川の戦いに臨むが、官軍の兵士に組み敷かれてしまう。絶体絶命、もはやこれまでというところで、その危急を救ったのが、江原の部下で当時19歳の古川であった。古川の助けがなければ、今日の麻布学園は存在しないところであった。江原は、このことを終生徳として、機会あるごとに周囲の人に語ったという。その江原の感謝の気持ちは今も変わらずに2003年に出版された麻布文庫の加藤史朗著 『江原素六の生涯』の中にも伝えられている。

※江原と古川の年齢は、いずれも満年齢。なお、余談であるが、二人の誕生日は年こそ違うが、同じ3月10日である。これも何かの因縁であろうか。

古川ロッパとの関係

 古川ロッパは、戦前から戦後にかけて約20年間第一線で活躍し、一世を風靡した喜劇俳優である。70代より若い世代の方にはなじみが薄いかもしれないが、浅草出身の喜劇人の系譜として、萩本欽一、ビートたけしの先祖筋にあたると言えば、多少はその人気のほどを感じていただけるだろうか。また、日本の演劇史、喜劇史に詳しい方でも、ロッパが、帝国大学(現東京大学)第二代総長の加藤弘之男爵の孫で古川家に養子に入ったことまでは、ご存知かもしれない。しかし、ロッパと古川宣誉を直接結び付けられる人はほとんどいないだろう。筆者も『沼津兵学校と其人材』を読むまでは、二人が血縁関係にあるとは全く想像すらできなかった。ここで、加藤・古川両家の関係を整理してみる。古川宣誉の長男武太郎の妻として加藤弘之の六女徳子が嫁いだが、夫妻に子供がなかったため、二人のもとへ加藤の長男照麿の六男であるロッパが養子となった。つまり、ロッパは古川宣誉の孫にあたることになる。

おわりに~古川家代々之墓

 古川宣誉に敬意を表すべく、墓参りをしてきた。古川家から資料を借りて古川の項をまとめたという『沼津兵学校と其人材』には、渋谷区神宮前にある「龍巌(岩)寺」に葬られたとあるが、ロッパの墓は雑司ケ谷霊園にあり、その真偽を確かめるのも目的の一つであった。結論から言うと、古川は、雑司ケ谷霊園の古川家代々之墓にロッパとともに眠っている。では、龍巌寺はどうなのかというと、「檀信徒以外の出入りをお断り申す。合掌」 という札が山門にかかっていたため、今回は住職に確かめるのを遠慮して帰ってきた。もともとの古川家の墓が龍巌寺にあり、宣誉も一旦はそこに葬られたが、男爵に叙せられた父のために宣誉の息子の武太郎がここに墓を移したか、単に手狭になったために移動したか、あるいは、分骨したかのいずれかではないだろうか。

 雑司ケ谷霊園は、都営の霊園であり、誰でも気軽にお参りできるので、時間のある方は一度訪ねてみることをおすすめしたい。時折ターカにある墓前で亡き母と時の過ぎるのも忘れて対話するというカブース国王に倣い、樹木の生い茂る霊園で故人とひとときをともにすることによって、心身ともにリフレッシュできるのではないだろうか。霊園のホームページにある案内図には古川ロッパの墓の位置が示されているので、それを参考にすれば簡単にたどりつける。私事であるが、筆者は、次回は乳香を取り寄せて古川の墓前に供えたいと考えている。