コラム
レストラン 「ラ・メンサ ジャスミン」にて サマーパーティが開催されました
8月22日の猛暑の中、日本オマーンクラブ恒例のサマーパーティが開催され、会場には多数の方々が集まりました。特別ゲストとして、Hatem Al Yaqoubi臨時大使ご夫妻をはじめ、オマーンクラブ会員とそのご家族やご友人、早稲田大学にオマーンから留学中のHunaida Al HinaiさんとAisha Al Hashimiさんも出席されました。アラビア語をスルタン・カブース大学で学んでいる日本の大学生3名も参加し、多様で沢山の方々の交流の場となりました。
ジョーンズ会長のご挨拶後、久枝譲治元大使の乾杯のご発声とともにドリンクとお食事を頂きながら美味しく楽しい交流が深まります。そして、会員の石川良男さんとお仲間の音楽ユニットタロウさんによるウクレレ演奏と華麗な歌声は、会場の雰囲気をさらに和やかにし、花を咲かせました。有名なヒット曲や懐かしいミュージックは耳になじみ素晴らしい空間となりました。
皆様お待ちかねの恒例のクイズ大会では、柴田芳彰さんによる詳しい解説があり、楽しみながらオマーンと日本について多くのことを学ぶことができました。クイズの成績優秀な回答者には、オマーンの蝋燭立て、コーヒーポット、フランキンセンスや、オマーン産デーツとドライフルーツセットなども用意され、とても盛り上がりました。
このような素晴らしいサマーパーティを行ってくださいました遠藤名誉会長、新村事務局長をはじめ企画・準備された皆様、そして司会進行を務めて,くださった玉澤恵理さん、皆様お疲れ様でした。ありがとうございました。
(小画像はクリックすると拡大します。)
Oman & Japan: Unknown History オマーンと日本-知られざる友好の歴史
(English is below Japanese.)
「オマーンと日本-知られざる友好の歴史」 遠藤晴男
(2月18日(木)の産経新聞近畿版夕刊「文化欄」より)
大正期の地理学者であり思想家であった志賀重昂が「知られざる国々」という本でオマーンを紹介したのは大正14(1925)年のことである。昨年森元誠二駐オマーン日本国前大使が出版した本のタイトルも「知られざる国オマーン-激動する中東のオアシス」、90年経ってもまだオマーンは知られざる国なのである。UAEやサウジアラビアに比べるとメディアへの露出度が低い。
しかしオマーン王室と日本には知られざる歴史的なきずながある。
今から約130年前の明治13(1880)年6月25日に、古川宣誉陸軍工兵大尉(後に中将に栄進)が日本人として記録上初めて、同7月3日には伊東祐亨海軍中佐(後に元帥に栄進)指揮下の比叡艦がオマーンを訪れた。伊東はトルキー国王に対して21発の礼砲を放ち、さまざまな贈賜品を拝領し、王宮を訪れ拝謁した。その後国王が比叡艦を訪れ、親書までいただいた。
それには「貴艦の安着を祝し、将来日本艦船の來泊を希望する。相当の礼をもって対応する」とある。平成2(1991)年に湾岸戦争後の掃海任務を終了した海上自衛隊の艦船がマスカット港に戦後初めて寄港して以来、イラク戦争、ソマリア海賊対策等で日本の軍艦のオマーンへの入港が続いている。上記のトルキー国王の心は、一世紀余りの時を経た現在も脈々と生きている。
この訪問にはもう1つの秘話がある。伊東らは、国王に謁見した際に蒔絵の椅子二脚と伊万里焼の花瓶一対を献上した。この蒔絵椅子らしいものがオマーン国立博物館の一角に由来が分らぬままに収蔵されているのを筆者が発見し、オマーン文化遺産省を通じて依頼した東京国立博物館の竹内奈美子氏の鑑定によって、これが19世紀後半に日本で作られたもので、比叡艦が国王に献上した蒔絵の椅子である可能性が高いことが判明した。
オマーンではマスカットのアラム王宮の前に新しい国立博物館を建設中であるが、完成の暁にはこの椅子が日本との交流を物語る遺例として博物館の一角を飾る予定である。
比叡艦から約40年後の大正13(1924)年2月28日にオマーンを訪問した志賀もタイムール国王に拝謁をした。志賀がイスラム国への旅を思い立ったのは日本の人口増、石油の確保、世界の東西対立への日本の立ち位置を探るためであった。
そして、国王から「よくもここまでこられた。アラビアも日本も同じアジアではないか。何故日本人はアラビアにこないのか。アラビアに来て商売をし、工業を興し、親交を促進し、アラビアが改善・復興できればお互いのためになるのではないか」との言葉をいただき、志賀は「陛下の言われたことは私がまさに申上げようとしていたことです」、「突然お伺いし拝謁を許されたばかりか、このようなお言葉をいただき、ただただ感激です」と応じ、2人は意気投合した。
この縁でタイムール国王は退位後の昭和10(1935)年に来日し、翌年再來日して日本人の大山清子さんと結婚して4年間を神戸で過ごした。その間に生まれたのが、いまもマスカットでご健在に過ごされていると仄聞するブサイナ王女である。オマーン王室には、日本人の血が流れているのである。
平成6(1994)年11月に皇太子殿下と同妃殿下がオマーンを訪問された際、カブース国王は純血アラブ馬の牝馬1頭を贈って、アラブでの友情と敬意の最高の表現をされている。馬の名前は「アハジージュ(歓びの歌の意)」、日オ友好の印としていまも那須の御料牧場で元気に過ごしている。
オマーンはホルムズ海峡を守り、エネルギー供給国として日本にとって重要な国である。平和な国、歴史のある国、環境や文化遺産の保護に熱心な国、国王をいただく国で日本と価値観を共有している。国民は温和で親切、他人を気遣い日本人によく似ている。来年1月には安倍総理が訪オされると仄聞しているが、これによって両国の友好がいっそう深まることを祈念したい。
“Oman and Japan-Unknown History of Friendship” by Haruo Endo
It was in 1925 that Shigetaka Shiga introduced Oman to Japanese people in his book, entitled “Unknown countries” (Geological Survey Society). The title of the book by HE Seiji Morimoto published in the year before last was also “Unknown Country-Oasis in the Middle East” (Urban Connections).
Is Oman still an unknown country to Japanese almost 90 years after its first introduction?
There certainly have been unknown historical relations between the Royal Family of Oman and Japan.
Nobuharu Furukawa, Captain of the army engineers (promoted later to Lieutenant General of the army engineers ), visited Oman on 25 June 1880 and became the first Japanese man on record to visit. The battleship “Hiei” commanded by Sukeyuki Ito, Navy Commander (promoted later to Admiral of the fleet) entered Muscat port on 3 July, following Furukawa.
Ito fired 21-gun salute to Sultan Turki, was given a variety of gifts by the Sultan and visited the palace for an audience with him. The Sultan later visited the “Hiei” and Ito received his personal letter, reading “Your esteemed letter of this date has been received and what you have written we have understood and we thank you for the sentiment conveyed therein. We were pleased to hear of your arrival and shall be glad if the Emperor’s ship comes here. We shall not fail to extend to them the courtesy which is their due at our hand”. Japanese Maritime Self- Defense Force ships entered into Muscat in 1991 for the first time after the Second World War having finished the duty of minesweeping. Since then Japanese warships have continued to enter into Omani ports to cope with the Iraq War, Somali pirates and so on. Sultan Turki’s patronage has stayed alive for more than a century.
There is an untold story pertinent to Ito’s visit. He presented two gold lacquered chairs and a pair of Japanese Imariyaki vases to the Sultan. The writer of this article lately happened to discover what appeared to be one of the chairs in the corner of the National Museum of Oman. Ms. Namiko Takeuchi of Tokyo Natioanl Museum surveyed the chair at the request of the Ministry of Heritage and Culture of the Sultanate of Oman to find that the chair was indeed made in Japan at the end of 19th Century and that the chair might be the one which was presented by the “Hiei”. Oman is now building new National Museum just in front of the Alam Palace in Muscat. On its completion, this chair will be exhibited in the Museum as a token of cultural exchange between Japan and Oman.
Shigetaka Shiga, who visited Oman on 28 February 1924, about 40 years after the visit by the “Hiei”, also had the honor of audience with Sultan Taimur. The purpose of his trip to Islamic countries was to explore how Japan should cope with the growing Japanese population, procurement of vital petroleum and allying itself to the West or the East.
In the audience, Shiga was told by the Sultan, ““You are most welcome to Oman. Do you not consider Arabia and Japan as both part of Asia? Why should not the Japanese come to Arabia? If you could promote closer friendship and improve and revitalize Arabia by coming here to do business and develop industry here, our peoples could both achieve great things.”
Shiga reciprocated the Sultan’s words as follows:
“What you have just suggested is precisely what I had wished to propose to you and your people on behalf of Japan.” , “I, a foreigner, was granted this audience despite my unexpected appearance is more than I could have dreamed of. I am deeply touched by your warm words.” and they clicked with each other.
Following this audience, the Sultan Taimur came to Japan in 1935 after his abdication. He visited Japan again in the following year, got married to Kiyoko Oyama and spent years inKobe. Princess Bhuthaina, who I understand still lives well in Muscat was born to the Sultan and Kiyoko. So Japanese blood is still part of the Royal family of Oman.
When Their Imperial Highnesses the Crown Prince and Princess of Japan paid a goodwill visit to Oman in November 1994, His Majesty Sultan Qaboos gave a pure bred Arabian mare as a supreme expression of friendship and respect for a royal counterpart. Her name is Ahazeej (Song of Joy in Arabic) and she has lived a healthy life at the Imperial Stock Farm at Nasu as a token of friendship between Japan and Oman ever since. .
Oman is an important country to Japan under the reign of the Sultan both as guardian of the Strait of Hormz and as a supplier of energy. Oman is a peaceful nation, a country with a long history, as an ecology- and culture-friendly country, and shares common values with Japan. Omani people are gentle, kind and extremely considerate to othersand so very similar to the Japanese.
Prime Minister Abe chose Oman as the first country to visit on the leg of his tour to the Middle East and Africa last January,
I sincerely hope friendship between the both countries will be deepened in the future, taking advantage of this visit.
(This article appeared in the evening edition of Sankei Shimbun Kinki Region on February 18, 2014.)
今月のアラビア語「あけましておめでとう」
「あけましておめでとう」の表現
新年を祝うような機会の挨拶としては、
「クッル・サナ、ワ、イントゥム ビ・ヘイル」( كل سنة و أنتم بخير )
ないしは、
「クッル・アーム、ワ、イントゥム ビ・ヘイル」( كل عام وأنيم بخير )
が、丁寧かつ確かな表現です。
「クッル・サナ」(ないしは、クッル・アーム)は、「Whole year」を示し、「イントゥム ビ・ヘイル」は、「You are well」とか、「you are in good condition」を意味します。
常日頃の会話経験から、「イントゥム」ではなく、「インタ」じゃないか、と、感じられる方もおられるかもしれません。しかし、「インタ」は、男性(単数)に呼びかける場合の表現であり、「イントゥム」は、二人称のYouを、単数形「インタ」から「複数形」にした表現。呼びかける相手を複数形とすれば、アラビア語では、相手への尊敬が織り込まれます。従い、「あけましておめでとう」の場合は、複数形とすることが妥当ですし、相手が複数であっても、女性相手であっても使えるので、便利です。
ただ、子供や家族を相手にする場合は、単純に、「インタ」か「インティ」とするほうが良いでしょう。
なお、「イントゥム」、「インタ」、「インティ」というニ人称代名詞最初の「イ」は、本来は「ア」と発音される音ですが地域によって「イ」で発音されていますので、実際には、各地の音に合わせることになります。エジプトやレバントでは「イ」、GCCでは「ア」の方が大勢でしょう。
また、「ビ・ヘール」ではなく、「タイイブ」とすることも多いです。この場合、「イントゥム」、「インタ」、「インティ」という代名詞の人称に沿って「タイイビーン」(複数)、「タイイブ」(男性単数)、「タイイバ」(女性単数)に変える必要があります。
なお、イスラムを奉じる中東諸国どこでもが、西暦の正月を祝うわけでもない事実は承知しておく必要があります。イスラム暦の正月は「ムハッラム」月の初日です。その日は、休日ではありますが、特にお祝い事はありません。
イスラムの大祭と言えば、断食月(ラマダン)明けのイード・ル・フィトル、と、巡礼(ハッジ)のイード・ル・アドハーという2度の休暇があげられます。その際には、前述の表現も使われますが、「イード・ムバーラク」という表現が適切です。「アッラーからの恩寵」と訳される「バラカ」を授かるというような意味合いがあります。
「おめでとう、Conflatilation」と相手に祝福を示すにも、やはり「バラカ」に派生する「マブルーク」という一語が有効です。
知られざる古川宣誉
下條綱木
はじめに~日本・オマーン交流史上の足跡
古川宣誉(のぶよし)が、近代以降、初めてオマーンの地を踏んだ日本人であることは、当会会員の多くの方もご存知であろう。当時陸軍工兵大尉であった古川がオマーンを訪れたのは、明治13(1880)年6月25日のことである。ペルシャ・トルコへの使節団の団長である外務省の吉田正春は、このときすでにペルシャへ向かって先行しており、古川は単身でのマスカット訪問となった。わずか数時間という短期の滞在であり、オマーン国王に謁見する機会もなかったが、古川が、日本・オマーン交流史上に長く記憶にとどめられるべき存在であることにかわりはない。 しかし、古川の実像は、その著書『波斯(ペルシャ)紀行』ほどには知られていない。微禄の幕臣から身をおこし、工兵の出身としては最高位の陸軍中将にまで昇り詰め、男爵にまで列せられながら、まとまった伝記もなく、ほとんどの人名辞典には、記載すらないのである。そこで、本稿では、現在手に入る資料から古川にかかわる二人の人物を選び、彼らとの関係から古川についてあまり知られていない事実を紹介してみたい。
江原素六との関係
江原素六は、麻布学園の創立者・初代校長であり、静岡県沼津市の私立駿東高等女学校 (現
静岡県立沼津西高等学校)の創立や運営にも深くかかわった教育家である。江原が麻布学園のみならず、沼津市の教育界の発展に力を尽くしたのは、戊辰戦争後徳川宗家が沼津に移封されたのを機に沼津に移住し、旧幕臣を生徒の中心とした沼津兵学校(後、陸軍士官学校の前身の陸軍兵学寮に統合される)の教師になったことに端を発する。現在、沼津市明治史料館は、江原素六記念館とも銘打たれ、今もそのときの江原の功績を讃えている。前置きが長くなったが、古川宣誉は、その江原素六の命の恩人なのである。これは形容ではなく、文字通りの意味でである。
話は、戊辰戦争のときに遡る。慶応4(1868)年、当時26歳の江原は、幕府の撤兵隊の大隊長として船橋・市川の戦いに臨むが、官軍の兵士に組み敷かれてしまう。絶体絶命、もはやこれまでというところで、その危急を救ったのが、江原の部下で当時19歳の古川であった。古川の助けがなければ、今日の麻布学園は存在しないところであった。江原は、このことを終生徳として、機会あるごとに周囲の人に語ったという。その江原の感謝の気持ちは今も変わらずに2003年に出版された麻布文庫の加藤史朗著 『江原素六の生涯』の中にも伝えられている。
※江原と古川の年齢は、いずれも満年齢。なお、余談であるが、二人の誕生日は年こそ違うが、同じ3月10日である。これも何かの因縁であろうか。
古川ロッパとの関係
古川ロッパは、戦前から戦後にかけて約20年間第一線で活躍し、一世を風靡した喜劇俳優である。70代より若い世代の方にはなじみが薄いかもしれないが、浅草出身の喜劇人の系譜として、萩本欽一、ビートたけしの先祖筋にあたると言えば、多少はその人気のほどを感じていただけるだろうか。また、日本の演劇史、喜劇史に詳しい方でも、ロッパが、帝国大学(現東京大学)第二代総長の加藤弘之男爵の孫で古川家に養子に入ったことまでは、ご存知かもしれない。しかし、ロッパと古川宣誉を直接結び付けられる人はほとんどいないだろう。筆者も『沼津兵学校と其人材』を読むまでは、二人が血縁関係にあるとは全く想像すらできなかった。ここで、加藤・古川両家の関係を整理してみる。古川宣誉の長男武太郎の妻として加藤弘之の六女徳子が嫁いだが、夫妻に子供がなかったため、二人のもとへ加藤の長男照麿の六男であるロッパが養子となった。つまり、ロッパは古川宣誉の孫にあたることになる。
おわりに~古川家代々之墓
古川宣誉に敬意を表すべく、墓参りをしてきた。古川家から資料を借りて古川の項をまとめたという『沼津兵学校と其人材』には、渋谷区神宮前にある「龍巌(岩)寺」に葬られたとあるが、ロッパの墓は雑司ケ谷霊園にあり、その真偽を確かめるのも目的の一つであった。結論から言うと、古川は、雑司ケ谷霊園の古川家代々之墓にロッパとともに眠っている。では、龍巌寺はどうなのかというと、「檀信徒以外の出入りをお断り申す。合掌」 という札が山門にかかっていたため、今回は住職に確かめるのを遠慮して帰ってきた。もともとの古川家の墓が龍巌寺にあり、宣誉も一旦はそこに葬られたが、男爵に叙せられた父のために宣誉の息子の武太郎がここに墓を移したか、単に手狭になったために移動したか、あるいは、分骨したかのいずれかではないだろうか。
雑司ケ谷霊園は、都営の霊園であり、誰でも気軽にお参りできるので、時間のある方は一度訪ねてみることをおすすめしたい。時折ターカにある墓前で亡き母と時の過ぎるのも忘れて対話するというカブース国王に倣い、樹木の生い茂る霊園で故人とひとときをともにすることによって、心身ともにリフレッシュできるのではないだろうか。霊園のホームページにある案内図には古川ロッパの墓の位置が示されているので、それを参考にすれば簡単にたどりつける。私事であるが、筆者は、次回は乳香を取り寄せて古川の墓前に供えたいと考えている。
魅力いっぱいの国オマーン
本年4月に日本オマーンクラブのメンバーになりました森田雅男です。宜しくお願い致します。
私は、総合商社・双日㈱のマスカット事務所長として1996年4月~2001年3月の5年間と、2008年9月~2013年3月末の4年半の2回の駐在で通算9年半をオマーンで過ごし、いろいろと得難い経験をすることができました。 駐在当時のオマーンは全国各地でインフラ整備にかなり力を入れており、各種プラントが数多く建設され、在任中やその前後にいくつか仕事の機会を与えていただきましたが、これらの重要な国家プロジェクトに関与できたことが、良い想い出となっています。 現在オマーンは歳入の約8割を石油・ガス収入に依存していますが、経済発展を支えるこれらの天然資源の可採年数はあと20~30年程度と言われています。政府は既存の石油・ガス田からの増産対策や新規鉱区の開発に注力しつつも、従来の石油・ガス依存体質からの脱却や経済多角化を重要課題とした長期計画を打ち出し、第8次5カ年計画(2011~2015年)では発電・造水能力の増強、空港整備、港湾整備、高速道路整備、鉄道建設などの各種インフラ整備を積極的に推進しており、国家計画の堅実さが伺われます。 一方、身近なところでも、駐在1回目の帰国時2001年から2回目の再赴任時2008年までのわずか7年の間に、いくつもの目を見張る変化があったことを記憶しています。例えば、2001年当時はほとんど見られなかった幹線道路の渋滞が2008年には慢性化しており、迂回路や新たな高速道路の建設が進み、またroundabout(ロータリー)に信号が設けられたり、高架になっていたりで、交通渋滞緩和策がいろいろととられていました。車の数は7年間で10倍近く増えたという印象で、これはオマーン人の雇用機会が増して収入が安定してきたことも大きな要因になっていると思われます(それまでインド人が多数を占めていたタクシーの運転手や魚市場での売り子がこの7年間で皆オマーン人に代わっていたりして、業種によってはオマーン人化政策がかなりのスピードで浸透していったようです)。またマスカットに人口が集中してきたため住宅需要が急速に高まって住宅建設ラッシュとなり、今でも郊外に伸び続けています。これに合わせ、周辺には大型ショッピングセンターがいくつも建設されて、商品の種類・品数が豊富になり、更に欧米の有名ブランドショップなども進出してきて、生活は日ごとに便利になってきています。 オマーンはかように着実に豊かになっている魅力いっぱいの国で、これからもますます発展していくよう応援をし続けていきたいと思っております。 堅苦しい話になってしまいましたので、最後にくだけた話題で、日本ではまず見られないオマーン独特の面白道路標識をいくつか皆様にご紹介して、私のご挨拶はこの辺でおしまいにします。 |
森田 雅男 |