カブース国王の思い出 Memories of Sultan Qaboos

2020-06-10

 
外務省霞関会報に掲載された森元誠二様の寄稿文です。
 


 

元駐オマーン大使 東京大学大学院総合文化研究科客員教授 森元 誠二

去る1月10日にオマーンのカブース国王が亡くなったとの報に接し、同国の現代史に一つの大きな区切りがついたとの感慨を強く持った。享年79歳、今年には統治50周年の盛大な記念行事が予定されていただけに誠に残念であった。

1.ブーサイード王朝第一四代「スルタン」が築き上げた近代国家の礎
オマーンの現ブーサイード王朝は18世紀に半ばに源を発し、アラブ世界では最古の現存王朝と言って良く、カブース国王は第14代の「スルタン」に当たる。今日の世界を見渡してみてもこの称号を保持する統治者は少ない。オマーン近代史を顧みれば、この王朝も押し寄せる植民地主義の大波からは逃れ得ず、これを嫌った父サイード国王(1910-1972)が鎖国政策を取り続ける中で国民は疲弊していた。1963年にはアフリカの自国領ザンジバルも失って沈滞したムードがオマーン全土を覆う中で、英国サンドハースト陸軍士官学校から帰国したカブース王子(当時)自身も父によって南部のサラーラの宮殿に閉塞されてしまう。
若き王子にとっての転機は、宗主国英国の力を借りて宮廷内革命を成し遂げ、父に代わって王位についた1970年の夏に訪れる。新国王は、折から60年代に始まった石油生産が生み出す富を活用し、後に国民から「祝福されたルネッサンス」と称される繁栄をもたらす親政に乗り出すのである。当時、国民1人当たりの国民所得は400ドル余り、国内には学校がわずか3校、小規模な病院が1つしか存在しないというゼロからの国造りであった。若きカブース国王は、そこから英国を手本に官僚機構を整備し、諮問議会と国民議会の2院からなる議会を設置し、国家基本法を制定して近代国家としての礎を築いたのである。
私は2008年6月から3年余オマーンに駐在したが、伝統的な建物を維持しつつも近代的なビルが立ち並ぶ市街地や大型ショッピングモールの活気に象徴される著しい経済発展を目の当たりにして正直驚いた。空港からマスカット中心部に向かう高速道路沿いにはナツメヤシやブーゲンビリアが植えられ、山肌の茶色と芝生の緑がコントラストをなして自然豊かな印象すら受ける。途中、右手に現れるグランドモスクの陰影がカブース国王の統治を象徴するかのように聳え立っていた。

2.啓蒙君主の発するオーラ
在任中私は4度にわたって、カブース国王に拝謁する機会を得た。最初の信任状捧呈式での会話は手短なものであったが、そこでも国王の我が皇室に対する敬愛の念は具に感じられた。残り3回は最後の離任に際しての拝謁を含めて全て国王とのテタテの会談であり、それぞれ1時間以上に亘って幅広いテーマにつき国王が語る興味深い話を聞くことが出来た。話していていつも感じることは、内政、外交を含む国王の物事への深い洞察力であり、言葉の端々から漂ってくる啓蒙君主としてのオーラであった。こちらからの質問を受けて、興に乗ってくると次々積極的に話しかけてくる感じである。周囲がドアを開けて時間を制することは決してなく、その場を辞するにはこちらからタイミングを見つけて暇乞いをせねばならなかった。

とにかく実体験に基づくエピソードだけに、イランのパーレビ国王やエジプトのサダト大統領などの歴史上の人物とカブース国王が織りなす歴史のひとこまは面白い。また、ムバラク大統領やカダフィ大佐の人物像や彼らの権力崩壊の原因、革命後のイランの統治体制と国内の矛盾や革命防衛隊と正規軍の評価など歯に衣着せぬ批評は聞いていて小気味よいぐらいであり、長文にはなったが本省に逐一報告した。後述の「アラブの春」に際してのカブース国王の迅速で的確な対応は、恐らくムバラクやカダフィの失脚から得られた教訓に学んだものであろう。

国王のバランス感覚に基づく国内の統治や近隣諸国との外交にも定評があった。オマーンの宗教は、同じイスラムではあってもスンニ派でもシーア派でもないイバード派と言われる少数宗派であるが、リーダーを合議制で選ぶ民主主義的色彩が強く、スンニ・シーア両派ともうまく折り合っていずれの宗派も国内でも許容されている。外交面でもバランス感覚が存分に発揮され、国王は常に独自の外交を展開した。即ち、湾岸協力理事会(GCC)の一員として政策調整には参加しつつもイランとも良好な関係を保ち、イランやカタールと断交を図ろうとする一部湾岸諸国の試みにも決して同調することはなかった。イランでしばしば拘束された米国人の釈放に裏で動いたのは実はオマーンであったことが多く、彼らの釈放後には米国政府から謝意が評されることもあった。オマーンはアフガニスタンからも地理的に近く、米国のチェイニー副大統領や英国のブラウン首相が首都マスカットを日帰りでカブールとの間を往復する際の拠点としていたことはあまり知られていない。

3.歴史上珍しくスムーズに行われた王位の継承
機微な問題ではあるが、私から王位継承問題についてもカブース国王に質してみたことがある。歴史的にオマーンでは王位継承の度に内政が不安定化することが多かったからである。国王は自信をもって、この問題は国家基本法に定められており、既に王位継承は制度化されているので心配はしていないと淡々と述べていた。統治王族の間で合意がまとまればそれで良く、3日以内に合意が出来なければ自分の遺言が開封されて後継者が指名されようが、これはあくまでも自分の推挙であり、最終的にはこの人物が伝統に従って王族間の合議で自分の後継者として認められる必要があると強調していた。興味深いことに、カブース国王自身も父親を王位から追い出したものの、新たに国王の座に就くには統治王族の承認を待つ必要があったとのエピソードを持ち出していた。今回、カブース国王が自ら望んでいたように、後継者を巡って何ら武力闘争が生じることなく王位継承がスムーズに行われたことには、天上できっと安堵しているに違いない。

4.「アラブの春」の迅速な克服
私の在任中、一度だけカブース国王の統治を心配したことがあった。それは、2011年にアラブ世界で吹き荒れた「アラブの春」の混乱がオマーンにも数日で及んだ時である。オマーンでも経済状況の改善、腐敗官僚の糾弾を求める声が公然化し、抗議運動が高まる中で遂に2名の死者が出た。この間、一部に王制廃止を唱える声が出るなど情勢は困難の度合いを深めた。これに伴い、日本もオマーンへの渡航に関する危険情報を一段階引き上げた。危機に対応する国王の対応は素早く、王宮大臣、警察庁長官の解任を含む閣僚16名の入替えに象徴される政治改革や最低賃金の引上げや年金・退職金の積み増しといった労働者の雇用条件を改善する経済政策など一連の改革に矢継ぎ早に取り組んで情勢を短期間に鎮静化させることに成功した。このことは、日本がオマーンに対する危険情報を他のアラブ諸国に先駆けて元に戻すことにも繋がった。

5.ブーサイード王朝と日本との緊密な結びつき
ブーサイード王朝と日本の繋がりには浅からざるものがある。古くは明治政府がペルシャとの交易のために派遣した軍艦「比叡」がマスカットに立ち寄ったりしているが、大正に入ると探検家で教育者でもある志賀重昂がカブース国王の祖父に当たるタイムール国王を宮殿に訪ねている。この出会いが後に退位したタイムール国王が日本を訪問し、日本人女性を妻に迎えて二人の間にブサイナ王女が誕生するという劇的な展開に繋がるのである。カブース国王は、叔母に当たるブサイナ王女と日頃接する中で日本の文化や精神について学んだそうである。

実は、本人の口から出るまで知らなかったが、カブース国王は王子として英国への留学の後に父サイード国王の勧めで世界旅行に出かけた途次、1963年に日本に立ち寄っている。その時の印象について、「日本は欧州とは完全に異なり、また、(自分が途中で訪れた)東南アジアの国々とも異なると感じた。日本文化には単純化された中にも美しさがあり、それは芸術的ですらあると感じた」と表現していた。

天皇皇后両陛下が皇太子同妃両殿下として1994年に中東を公式訪問された際、オマーンで接遇に当たったのもカブース国王自身である。国王は伝統に則って砂漠のロイヤル・テントでゲストをもてなしたが、国王からは更にアラブとしては最高の友情と尊敬の証である駿馬「アハジージュ(歓喜の歌の意味)」が贈られた。その血統は宮内庁御料牧場において子孫に受け継がれている。

6.東京大学に創設された「カブース国王講座」
私にとってオマーン在勤時の至高の喜びもカブース国王によってもたらされた。国王の寛大な寄付により、2010年10月東京大学大学院総合文化研究科・教養学部に中東地域研究センターに所属する形の寄付講座として「カブース国王講座」が設立されたのである。この講座は基金の原資から生じる利息で運営される永久講座であり、特任の准教授と助教を擁している。東京大学の他にも、カブース国王講座はケンブリッジ大学、ライデン大学、メルボルン大学、ウイリアム・アンド・メアリー大学など世界の名だたる大学に設置されているが、2014年10月にはこれら講座の代表が一堂に会する総会が東京大学で開催された。その開会式には時の皇太子殿下がハイサム殿下(遺産文化大臣)と共にご出席されたが、今ではそれぞれ国家元首の地位に就かれているのも感慨深い。

7.カブース国王の遺志を継ぐハイサム新国王と日本の関係
「カブース国王講座」には、オマーン日本協会会長を務めるオマーンの実業家モハメッド・バフワン氏によって寄贈されたアラブ学のための図書館も付属している。この「バフワン文庫」では、イバード派関連の書籍を始めとして日本ではここにしかない図書の充実に努めて来ており、部外の来訪者も多い。
2月に入って、ここにハイサム新国王から寄贈されたオマーンの遺産文化に関する80冊余りの図書が届いた。昨年九月に天野浩名古屋大学教授と共にオマーンを訪問して遺産文化大臣としての殿下に会った際に話題となったことを新国王になってもきちんとフォローアップしてくれた成果である。これで文庫に唯一の貴重な蔵書がまたいくつか増えた。我が国皇室とも緊密な関係を有し、親日家として知られるハイサム国王だが、同国王が王位継承後最初に行った施政方針演説でも高らかに宣明したようにカブース国王の志は次の治世にも引き継がれる。新国王は、日本との関係でも先代の築いた礎を一層強固にしていってくれるものと確信している。
(一般社団法人霞関会より転載許可取得済)